一見小難しい題名ですが、なんのことはない、イタリア語で「なんとかする芸術」あるいは「つじつまを合わせる芸術」という意味です。
これが弦楽器製作に何の関係があるのかと思われるかもしれませんが、少なくともイタリア的な精神風土をたずさえて楽器を作っていくのであれば、このL’arte di arrangiarsi の精神なしに仕事をすることはできません。
これは日本語で、日本人の感性に説明を試みるのはなかなか難しいのですが、このことを知りつつ、イタリアの特に古い楽器を見るとなかなかに考えさせられるものがあります。
先日も、Amati (アマティ ※アマティはストラディヴァリやグァルネリなどの製作者を輩出する基盤をつくったイタリア・クレモナにおける弦楽器製作のパイオニア)から、Amati 兄弟のヴァイオリンのプロポーションを確認してみていたのですが、パッと見た目はとてもいい感じなのですが、実際の確認してみるとどうやってこうもアンバランスなものをうまくまとめあげられたかという感じなのです。
現代の製作者は一般的に楽器にしっかりした中心線を求め、それをもとにまずは楽器や型を作っていくのですが、Amati 兄弟のそれはどこが中心かよくわかりません。実はこういう古い楽器はたくさんあって、よく知られる中ではその最たるものがグァルネリだったりするのかもしれません。
ただ、非常に均整がとれていると思われているストラディヴァリなどでさえも、完璧に左右対称の楽器はないように、昔の製作者にとって左右の対称性や製作精度というものはあまり重要度が高くなく、それよりも何となくいい感じにまとめ上げることの方が大事だったのだろうと思います。
つじつま合わせというと否定的なニュアンスが含まれますが、それが芸術的な高みにまで昇華されているとしたらどうでしょうか。と言うよりも、実際にはすべての芸術が高度なつじつま合わせなのかもしれません。
音楽にしても、絵画にしても、詩にしても、全体の調和が何より優先されるのではないでしょか。
演奏において小さなミスタッチよりも全体として音楽がまとまっているかどうかが大事であるように、均整がとれた演奏かということよりも心の琴線に触れるものがあるかどうかということが大事であるように、芸術の中には、常にL’arte di arrangiarsi が含まれているように感じます。
が、こう書いてみても、やはりイタリア的なニュアンスにおけるL’arte di arrangiarsi は説明し尽せません。
ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラのスクロール(渦巻き)を作っていてそのことを思ったのですが、どうやらこの話は、均整のとれた論理ではなかなか伝わらないので、別の機会にワインでも飲みながら話した方がよさそうです。