弦楽器のニス補修を依頼する前に

弦楽器を演奏していると楽器をどこかにぶつけたり、あるいは弓を当ててしまうなど、様々な理由でニスの欠損が起こることがあります。

また欠損しないまでも、身体や手と直接に接触するところはニスの損耗が起こりやすいものです。

ニスが剥がれたら、工房や技術者を置く楽器店で補修を依頼されることと思いますが、当工房でもこのところ何件かの補修を相談されたこともあり、ご依頼をされる時の基本的な知識を記すことにしました。

結論を先にお伝えすると、ニスの補修にはそれなりの日数がかかるという話です。

さて、ニス(ワニス、塗膜)には様々な種類があるのですが、非常に多くの場合にアルコールを溶剤として溶かした樹脂によって補修を行うことがあります。(※他の様々な方法もありますが、ここでは話が広がり過ぎないように限定します)

代表的な樹脂はシェラックというものですが、アルコールに溶かして塗布された樹脂は、アルコールが揮発することで塗膜として樹脂が残り楽器を保護してくれます。

この時、アルコールが揮発するにつれて、ニスの塗膜は塗布した直後から徐々に目減りしていきます。つまり一見平らにできたところが日数を追うにつれて凹んでしまったり、薄くなることがあるということです。

このアルコール分の揮発は、ニスの成分、塗布の仕方、元々の楽器固有のニスの状態、また補修をどの程度行うべきかという技術者ごとの基準など、様々な要因で変わるので、どれぐらいの時間ですっかり抜け切るのかということを正確にお伝えするのは難しいです。

ただ、比較的新しい楽器(製作してから100年以内の楽器)で、ニスの欠損が木部にまで及んだ場合(色付きのニスが剥がれて、白っぽい木地が見えてしまったような場合)では、元に近い状態まで直そうとすると、その欠損箇所の大小に関わらず、実は本来かなり時間がかかる場合があるのです。

どれだけの時間がかかるかは上に書いた通り、多くの条件が絡むため、一概には言えないのですが、木地が現れた欠損では今日楽器を受け取って、明日楽器をお返しすることはまずできません。

できるとすれば(あるいはそうせざるをえないとすれば)それは何らかの事情で応急処置的に傷を目立たなくする場合のみです。この場合には塗膜層の回復はほとんど行われず、何ミクロンかというかりそめの薄い保護膜が染料や顔良による擬似的な色付けで作られるだけになります。

すべての演奏家・愛好家が複数台の楽器を持っておられるわけではないので、長く楽器を修理に預けることができないことが多いため、1日でも半日でも早く直してほしいというご要望から、応急処置は比較的頻繁に行われますが(それ自体は致し方のないことですが)、1日そこらで楽器が戻ってくるような処置はあくまで応急処置であるということを覚えていただければと思います。

もちろん、倫理基準の統一されていない弦楽器の世界では、現状を維持する応急的な処置以上の補修はそもそもするべきではないと考える技術者がいてもおかしくはありません。どの程度までの補修を行うかということは、指示がない限りは技術者の考え方に任されていることがほとんどです。問題はオーナーである演奏家の方がその工房ごとに異なる基準があるということを知らされないままに「ニス補修」という一言で、様々な基準と処置に実はさらされているということではないかと思います。

ニスが欠損した時に、どの程度の回復を希望されるのか、そのリスクとメリットを少しずつでも技術者と演奏家の間で共有できれば、より楽器を長持ちさせるのに適した方法がとれる場合があります。また、寿命の長い楽器であればこそ次の世代に受け渡しやすいメンテナンスを選ぶことができます。

あれこれ書いてしまいましたが、十分な保護膜をニスによって作り、楽器を長持ちさせるには、一見小さな欠損でも木部が見えている場合はかなりの日数を要する場合があり、即日の補修では十分な見た目と保護膜を作ることは難しいということを覚えていただければと思います。