
先日、佐野篤さんが肩掛けチェロを試奏に来られて、その時出たお話の中で、とても考えさせられるものがあったので、自分の考えとともに記しておきたいと思います。
佐野さんのご自宅には40以上の種類のまったく異なる楽器があるということで、そうした様々な楽器に触れてこられた経験から、子どもたちに楽器を教えられることがあるということです。
ある子どもは弦楽器を、ある子どもは太鼓を、またある子どもはリコーダーをというように皆で佐野さんの元で合奏をするというのですが、それを聞きに来た人たちが親御さんたちもふくめ、ワンワン泣くというのです。
佐野さんは子どもってずるいよねと言っていましたが、皆で共鳴してそうした響きを作り出していることを考えれば佐野さんの抜きにそうしたことが起きるとも考えにくいです。
このような働きをされている方は時々耳にしますが、不思議なことに概してそうした活動はほとんど有名なものではありません。
大切なことほど世には知られないということを考えさせられました。
もう一つ気づかされたことは、おおよそ私たちが扱う、特に仕事として扱う音楽の多くは大人のためのものになっているということです。
大人のための古楽、大人のためのクラシック、大人のためのジャズ…「大人のための」という冠詞は付かなくても、実際にはそうなっているということです。
その音楽を聴いて、聴衆がワンワン泣いてしまうような音楽を私たちは(楽器職人も含めて)やっているのかと、実に稀ではないでしょうか。
ワンワン泣く音楽以外は意味がないと言っているのではありません。毎日泣いていたら疲れます。でも、私たちがふだん音楽と思っていることの全体が実際にはずいぶん偏っているなということを佐野さんのお話から気づかされたように思いました。
貴族が大人に入れ替わっただけとも言えるかもしれません。
楽器もそうです。楽器にヒエラルキーを付けて、ストラディヴァリを頂点とした格付けを行うことはけっこうですが、そうした市場価値と音楽は本質的には無関係のものだと言えます。多くの演奏家は本当はそのことを分かっているし、聴衆もそうだと思うのですが、なぜか人と人が集まり音楽の話なると、誰が作ったとも知れない共同幻想のもとで話が進んでいくことが何と多いことでしょう。もちろんそうした方が楽だからそうしているというのも分かるのですが、それが真実だと勘違いする人も出てきてしまい、話はどこまでもややこしくなってしまいます。
かく言う自分もめんどうくさくて、うんうんと頷いていることがたびたびある咎人で、今さらカマトトぶるつもりもありませんが、でもどれだけ世情に流されても、音楽は無一文でも最高の音楽ができるものだということを忘れてはならないと思いました。
断っておきますが、もちろんストラデヴァリがすごくないということではありません。私自身あの時代の文化がとても好きですし、ストラデヴァリもすごいなといつも思っています。何億という値段がつくことにも文句はありません。でも、それでも音楽そのものとはやはり本質的には無関係であるとも言えるのです。自分がそのことを忘れて、楽器を作ったり、楽器の売り買いをするのは嫌だなと思います。
ということで、手近な楽器を持ち寄ってワンワン泣いてしまうような音楽を1年に1回とは言いませんが、たまにやってもよいのではないでしょうか。聴衆のわがままですが。