音楽は時間芸術か

年末になり、家のこともやらなければならず、ひと息つきたいところですが、少しだけ最近の考えをまとめて書いてみたいと思いました。

工房仕事とは関係のないことなので、どうぞお聞き流しください笑

音楽は時間芸術だとはよく言われることですが、そもそも時間とは何なのかということを考えると、科学者の方でも時間は人間の頭の中にあるだけの概念上のもので実際に人存在しないという方も決して少なくありません。と言うよりも科学者の方は大半は時間は本当は存在しないと考えておられるのかもしれません。

仮に時間というものが本当はないと考えた時、ふと、音楽の素晴らしさはそこにあるのではないかと思いました。

人間社会の問題や悩みの多くは、過去のことや未来のこと(つまりは存在しない概念上のモノゴト)をあれこれ考えている時しかないと思います。

ひるがえって、音楽的な行為をしている時にはそれができません。常に今の音をつないでいくことに奏者も聴衆も集中しているので、過去を振り返っている余裕などどこにもありません。でも、曲を構想する時に未来はあるのではないかと思うかもしれませんが、曲を構想する時の全体像と言うのは曲の未来とは少し違うと思うのです。曲の全体像は常に最初からそこにあり、未来になってやってくるものではありません。

このように考えると、音楽は時間芸術であるという言い方は正しくなく、音楽は超時間芸術、あるいは現在というリアルなものに私たちを立ち返らせてくれる行為であると言えるかもしれません。

考えてみると、すべての芸術の鑑賞、スポーツ、技術作業、食事など五感を使うものはそうした性質のものなので、元来は時間という概念を離れてひたすら今あるものを感じ取る行為にいざなうものを芸術と呼ぶのかもしれないと思いました。

ここまではさほど変なことを言っていないのではと思いますが、本当に時間がないという瞬間を私たちは普段の生活ではなかなか感じられないと思います。しかし、時間がない瞬間というのはおよそすべての境界が消えます。境界が消えるということは、時間だけでなく距離も消えます。主体と客体は消えて、概念的な全て(時間も神)も私もなくなります。これは経験的なことで、概念的なく話ではありません。

結局、時間というのは私という固定的な個の意識が作り出しているもので、私というものが固定的でなく単なる変化する状態なのだと認識されるといくぶん薄れるように、音楽はそれ自体の常時的な状態変化によって、我々の固定的な個からの解放を自然と担ってくれているように思います。

個の概念、個の意識、時間、境界線こうしたものがすべての悩みや争いごとのベースにあると考える時、在ることの喜びという曲を奏でる以外にやることはないと思いました。喜ばしき曲を来年奏でたいとか、いつか奏でたいとかではなく、ただ奏でる。ただ作る。ただ味わう。ただ、ただ

言葉は、時間の概念を前提に組み立てられることが多いために、すぐに足をすくわれて悩みの沼に足を踏み入れがちですが、音楽にすべての人々がいつでも立ち返れるということは疑う余地もないので、一見すべてが孤独なようであっても、本当はこの音の響きの中にすべてを見、すべてと共にあることをいつでも見出せるのだと思います。

ということで?

気持ちのよい響きを!笑