訃報

一昨晩、Renato Scrollavezza レナート・スクローラヴェッツァ先生の訃報に接しました。

スクローラヴェッツァ先生は私にとって一番最初に弦楽器製作の手ほどきをしてくださった人であると同時に、弦楽器製作におけるもっとも大事な部分を教えてくれた人でした。

Parmaで彼に教わった後に私がついたLuca Primo, Marco.I.Piccinotti, Carlo Chiesa 、またミラノの学校への連絡をしてくれたLorenzo Frignaniなどの先生方は皆、スクローラヴェッツァ先生の弟子で、私にとっては兄弟子たちでした。

スクローラヴェッツァ先生は、商業主義に背を向けて長く隠遁していましたが、その中でも彼を慕って集まった多くの後進を育てました。

また、昔の名器など他人のコピーをするのではなく、一人一人に自分の中の文化を育て、自分のオリジナルのモデルを持つように背中を押してくれた最初の人でもありました。学校では彼自身のモデルを使わせてくれましたが、「コピーするなよ」と口酸っぱく言われたものです。私が今、コピーをせずに楽器を作れているのは先生の後押しがあったからです。

弦楽器製作はコピー製作ではない、向かいの製作家は誰一人としてそんなことはしていなかったという主張から、寸法を多用してポスターや写真を使って昔の名器のコピーばかり作るようになってしまった戦後クレモナの大勢を嘆いた気骨の人でした。先に亡くなったクレモナのモラッシー氏やビソロッティ氏との確執と親交は、界隈ではよく知られた話でした。

スクローラヴェッツァ先生自身は、クレモナの学校を出ていたのですが、当時は常勤の先生がハンガリー人の方がいただけだったということで、「イタリアの弦楽器製作などというものは当時はもはやどこにもなかった。学校では何も学ばなかったし、一からやり直さければならなかった」ともよく話していました。そういう先生の楽器には1900年代の偉大なモダン・ミラノの製作家たちの影響が色濃く見られました。全体のスタイルとしては、Amatiのやわらかいラインが見えました。

彼の製作方法は、独特で、戦時を通して道具のなかったころから練り上げられた方法でした。具体的には、楽器はほとんど鑿だけで作り、豆鉋は使いませんでした。またクランプもネジ式の便利なものはなく、ベッドや椅子のスプリングに使われていたバネ材を切り出して、それをC字クランプとして多用していました。私も初年度はガラクタ屋や、素材ごみ置き場に捨てられたベッドからバネだけいただいてきてC字クランプを作っていたことを思いだします。

また、弦楽器製作だけでなく、美味しいものをいつも食べて味覚を通して繊細な感覚を養うことや、弦楽器だけでなく絵画、家具、建築など音楽をとりまくあらゆる文化に目をとめて観察し、吸収するように何度も何度も言われてきました。

昼食の時に生ハム入りのパニーニを食べた後で、牛乳を頼んだら怒られて、生ハムならこれだろう!とワインを差し出されて、午後は仕事にならなかったこともありました。とにかく体と心に入るものについては、大事にするように言われ、大声で叱ってきた後にもウインクをしてくるようなチャーミングなところもありました。

私が通っていた頃はパルマの学校は今の場所にはなく、資金難で毎年学校の場所を変えていましたので、年度終わりには「先生、来年はどこでやるのですか?」と尋ねて先生についていくというような具合でした。先生の故郷のNoceto (パルマの近郊)で古城の中に教室を借りることができてからはそこに学校の場所が定まったようですが、今の場所になってからは私は行ったことがありません。

ダンディーで、その風貌からよくパルマの人たちからはヴェルディのようだと言われていましたが、毎学期の休みの前には生徒ひとりひとりをハグして、その髭をこすりつけてしばしの別れを惜しむ愛情深い人でした。色々な意味で、イタリア弦楽器製作史における最後のモダンの製作家であったと思います。

冥福を祈り、心からの感謝を捧げます

(上、パルマでの2年目、学校にて)

 

(上:スクローラヴェッツァ先生のご自宅にて、下:同期の皆と)