昨日、大槻晃士先生の楽しく、また示唆に富んだレクチャーを受講させていただき、ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ(小型5弦肩掛けチェロ)に関する私自身の仮説が大枠で見えてきた気がするため、一度そのことを皆さんと共有し、考えていただければと思い、ここに書き記すことにしました。
その前に、ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ(小型5弦肩掛けチェロ)をめぐって、どのようなことがこれまでにあり、私自身がどのようにこれまでの流れを感じているかということから話を始めたいと思います。
Lambert Smit 氏がアマチュアの研究者として調べてきた肩掛けチェロの存在を古楽コミュニティーに問い、そのことからシギスヴァルト・クイケン氏がディミトリー・バディアロフ氏に肩掛けチェロの製作を依頼したころから、小型の肩掛け5弦チェロの台数がにわかに増え、肩掛けチェロの存在が世に知られるようになりました。おおよそ10~15年ほど前のことと思います。
その後、クイケン氏らによって、小型の5弦肩掛けチェロを使うことで、バッハ(J.S.Bach)の有名なチェロ無伴奏組曲が当時のままに自然な運指で演奏できるということが示され、多くの人が関心をいだきました。
その結果、一時は小型の肩掛けチェロの演奏者も増えた時期があり、幾人からの日本人の演奏家も活動していましたが、その後流れがとまってしまったように感じました。あるいはまったくはとまらないまでも、最初に比べ勢いがなくなってしまったように感じるようになりました。
小型肩掛けチェロの再興が、ある時期から徐々に力を失った理由はいくつか考えられますが、再開発当初は弦の質が安定せず、弦が切れやすかったり、音に問題があった(※)ことに加え、楽器の存在自体に対する強い否定的批判があったように思います。その主張は主に次のようなものでした。
(※弦の問題、音の問題については、赤津眞言先生、大槻晃士先生などからも別々の機会に伺うことがあったため、再興当初に関わられた多くの方が抱いた問題であったと思われます。)
肩掛けチェロの否定的根拠
・小型5弦肩掛けチェロはJ.S.Bach の演奏に最適と言われているが、そもそも作品の中に1つとして肩掛けチェロ(violoncello da spalla、あるいはviola di(da) spalla、もしくはviola pomposa などの名称)が示されていない。またバッハ以外にも見られない。
・肩掛けチェロが成立するためには最低弦に二重巻弦が必要であるが、二重巻弦が文献に登場するのは1767もしくは1768年が最古であり、1720年以前でなければ小型5弦肩掛けチェロによるJ.S.Bachの作品は成立しえない。
・小型肩掛けチェロがそもそも1台も現存していない。ブリュッセルの博物館にあるバッハと親しかったと言われる製作家Hoffmannの楽器は偽作であり、それをもって小型肩掛けチェロがあったというなら笑い話でしかない。
この他にも、「音が悪い」から存在しえないなどの主観的な主張もありました。そして、小型5弦肩掛けチェロは現代の突飛な発明に過ぎない、歴史の捏造だ、というような声まで聞こえるようになりました。
また、残念ながら、小型5弦肩掛けチェロ肯定する意見と、否定する意見が感情的に対立し、十分に学究的な調査が進展をみなくなったことも一因としてあったように、傍から見ていると感じました。
いずれにせよ、上記の赤字で書いた否定的主張は、大槻先生の講義でも紹介がされたため、そうしたことがあったことは間違いないかと思います。
私が知る限りでは、これらの否定的主張は、Marc Vanshcheeuwijck氏などの記事に端を発しているようにも思われますが、多くの場合、それらの主張は、小型5弦肩掛けチェロが存在したということを示唆する資料をどのように説明するかということに一切ふれていないことがほとんどでした。
したがってよく考えれば、それだけでは説得力に乏しいことは明らかであったにも関わらず、多くの人が影響を受けたのは、否定的主張に反論できる材料を持っていなかったことに加えて、音がしっくりこないためであったからではないかと思われます。
それではこれらの否定的な見解に対し、どのような説明が可能でしょうか。
否定的な批判をどのように捉えるべきか
まずバッハが5弦肩掛けチェロについて言及をしていない理由としては、そもそもチェロというが楽器がどのように定義されるかということにも関係すると考えられます。
この点は大槻先生のレクチャーを通して、「1660年代にイタリアのボローニャで開発されたと言われる巻き線を最低弦に使用した低音楽器であり、当時のコントラバスよりも小さなサイズの楽器の総称」であったということが非常に分かりやすく解説されていました。(より深くチェロの歴史にご興味のある方はぜひ大槻先生のレクチャーを見つけてご受講ください)
また当時は5弦のチェロは普通に存在しており、巻き線を使った小型の5弦肩掛けチェロはバッハにとっては単に「チェロ」であったので、特別な名称で呼ばなかったということも推理できます。
多くの絵画・文献資料が示すように、チェロはサイズに大小にかかわらず、それを横に抱えて演奏することは当時は珍しくなく、胸の前で横に構えて演奏する小型5弦(肩掛け)チェロも、チェロの音域に調弦されていたのであれば、単にチェロとして当時は考えられていたであろうということです。
次に二重巻弦の問題はどうでしょう。これは単純なことですが、1660年ごろにイタリアのボローニャで巻弦が発明されたと考えられていますが、1660年から1767(あるいは1768)年の間に「二重巻弦が発明されていない」ということを示す証拠は何もないのです。つまり、二重巻弦の存在が明示された最古の文献が1767(8)年であったとしても、それは単にその時には少なくともあったということを示すだけで、それ以前に二重巻弦がなかったとは言い切れないのです。したがって、それだけをもって二重巻弦がなかったから、小型5弦肩掛けチェロもありえないのだと否定するには無理があります。(また、現代の弦のメーカーに問うても、巻弦が発明された以上、それを2重にしようと考えることは誰が思いついてもおかしくなく、技術的にも可能だっただろうと言います。)
では、楽器が現存していないという問題はどうでしょうか。確かに、ブリュッセルのHoffmannと言い伝えられる楽器は、別の作者の楽器にHoffmann を名付けた可能性が高いと思われます。この点を肩掛けチェロの復興に大きな役割を果たしてきたディミトリー・バディアロフ氏に尋ねたところ、バディアロフさんもやはりブリュッセルの博物館に収蔵されている楽器と、ライプツィッヒの博物館に収蔵されている楽器は別の作者だと感じるということでした。したがって、ブリュッセルの楽器が否定されるのは仕方がないとしても、ライプツィヒの楽器を否定することはできません。ただし、あまりに台数が少ないのがなぜかという問題が残っており、これはまた別の視点から後述したいと思います。
そのほかにもバッハとは時代などが異なるものが含まれるものの、小型5弦楽器が各地にわずかながら残されており、それらに関する言及が否定的見解にまったくないのはも、やはり無理があると思います。
このように否定的批判の論拠がいささか乏しいにも関わらず人々を動揺させていたことも問題でしたが、一方で肯定派の意見にもいくつか説明ができない点が常に残っていたことも悩ましい問題でした。
もっとも重要なのはやはり二重巻弦の問題で、これが当時の技術でできたかできなかったかよく分からないという疑問がありました。これについては、イタリアの弦メーカーであるAquila アクイラ社のミンモ・ペルッフォ氏などが当時の技術の範囲の範疇で、実現可能であることを今では示しており、今日では当時実現できていた可能性が十分あると想像することについては大きな問題はないように思われるものの、否定する証拠もないかわりに、肯定を決定する証拠もまだ文献などの形では出てきていません。
また、小型の5弦肩掛けチェロ肯定派が論拠とするバッハの時代の多くのチェロの図版は、チェロがコントラバスよりは小型であったものの、それなりに大きく、現代のチェロやそれよりはやや小さめのピッコロ・チェロと呼ばれるものの範疇であったことを示しており、10年ほどまでに再興をみた非常に小型の5弦肩掛けチェロとはかけはなれたサイズであったため、そこまで小さなものの図版がほとんど見当たらないということも、小型の5弦肩掛けチェロの存在を説得する上で材料が乏しいと感じられる要因になっていたように思います。
ではこれらをどのように解釈すればよいのでしょうか。そのことに直接答える前に、バッハの周りに小型の5弦肩掛けチェロがあったと思わせるいくつの資料を先にご紹介したいと思います。一部は過去のブログでも紹介をしていますが、ここで改めて取り上げます。
J.S.Bachの周囲に見え隠れする小型5弦チェロの存在
まず、これはMusicalisches Lexicon(1732年)という音楽辞典の中の口絵です。この辞典は実はJ.S.Bach の甥にあたるJ.G.Walther が編纂したのですが、この口絵を見るとオルガンの前に座って弾いているように描かれているのが実はJ.S.Bachであり、その後ろに両手に紙をもって立っているのがWalther本人で、手に2つの紙を持っているのが見えます。それらは「科学」と「歴史」を示しているとのことです。
この絵の舞台は1732年にバッハがカペル・マイスターであった聖トーマス教会を描いたものとされていますが、今回注目すべきは絵の中のWaltherの後ろにバス・ガンバ奏者がおり、そのさらに後ろに2人の弦楽器奏者がいることです。
この2人の弦楽器奏者を見ると1人が4弦のヴィオラのような楽器を構え、もう1人が5弦のヴィオラにしては横板の高い楽器を構えていることが見てとれます。5弦のヴィオラというのは当時はおそらく見られなかったと思われるので、これが小型の5弦肩掛けチェロを示しているのではないかと想像するのは難しくありません。
ではWalther がどのようにこの書籍の中で、肩掛けチェロを記しているかというと、次のように書かれています。もとはドイツ語ですが、英語の翻訳文を拝借して掲載します。
The Violoncello is an Italian bass instrument resembling a Viola da gamba; it is played like a violin, i.e. the left hand partly holds it and stops the strings; partly however, owing to its weight, it is hung from the button of the frockcoat […]. It is tuned like a Viola.
この文章については、少し明瞭でない点があるのですが、大まかに訳すと1つはヴィオロンチェロ(チェロのイタリア語名…したがって巻線をもっていたと考えられる)はヴィオラ・ダ・ガンバ(足にはさんで演奏した楽器群)に似ているが、ヴァイオリンのように横に構えて演奏されると書かれています。また、大きいのでコートのボタンにひっかけるのだとも書かれています。問題は「ヴィオラのように調弦される」と書かれていることです。この「ヴィオラのように」という書かれ方が、長く論争の焦点であったことは想像に難くありません。
ヴィオラと同じであれば、ヴィオラと同じと書けばよかったわけで、そうではなくヴィオラのようなと書いている言葉の意味をどう解釈すればよいかということです。ヴィオラと同じでもう一本弦が多いということであれば、そう書けばよいのですが、そうは書かれていないことを考えると、ヴィオラと同じようにというのは、C、G、D、Aという5度の配列を指しているだけであったのではないかと考えられます。
Walther 以外にも、次のような文献が残されているのが目につきます。
こちらは日本語で白水社のバッハ叢書から引用させていただきます。J.A.ヒラー(Johann Adam Hiller)が、J.S.バッハの没後16年の1766年12月26日にライピツィヒの『週間報知』に書いたものとして、次のような内容が紹介されています。
「この楽器〔ヴィオラ・ポンポーサ〕は、チェロと同じ調弦だが、さらにそのうえにもう一本の弦をもち、ヴィオラよりやや大きい。そして一本の帯でしっかり固定されているため、胸元と腕とで支え持つことができる。この楽器を発明したのは、ライプツィヒのいまは亡き楽長バッハ氏である。」
残念ながら図版はありませんが、ここでは明確に「チェロと同じ調弦」であると書かれています。また、先述した二重巻弦の問題と照らし合わせたときに、チェロと同じ調弦のヴィオラよりやや大きい目の楽器がすでに存在していたことを示唆してしたととることもでき、楽器の製作や活用にかかる年月があることを考えれば、二重巻弦の最古の文献と言われるものよりもさらにさかのぼる時期に二重巻弦自体は活用されていたことを想像することも十分できます。
しかしながら、ここでまた別の問題が発生します。それはヴィオラ・ポンポーサviola pomposa の名前です。実はこの名前がどこから出てきたのかということは私の方ではよくわかっていません。この名称に問題があるのは、バッハより後の時代において、このヴィオラ・ポンポーサがチェロと同じではなく、ヴィオラと同じ調弦で使用された形跡があるからです。
そのため、この名称をめぐってはまた別の混乱が生じているのですが、いずれにせよ、ヒラーの記述においては、チェロ調弦となっており、後世に発した名称の混乱も含めて考えると、銀線を2重に巻いて作る二重巻弦が普通の弦に比べて高価であったことは明白であることから、高名な楽長であったバッハには二重巻弦をつけた小型の5弦肩掛けチェロを使用する余裕があったが、後世の人々には、経済的な事情、もしくは弦製法か弦の入手の問題から二重巻弦が手に入らなかった、あるいは入りにくかったなどの状況があったのではないかということも想像できるのです。
ヒラー以外にも次のようなものが同・バッハ叢書に紹介されています。こちらは長いので、一部だけ引用しますが、J.N.フォルケルという人が1782年の『音楽年鑑』(ゲッティンゲン)に記したものとして日本語に翻訳されています。
「(前略)ライプツィヒのかつての楽長ヨーハン・ゼバスティアン・バッハ氏は、みずからヴィオラ・ポンポーザと名づける楽器を考案したのである。それはチェロと同じ調弦だが、そのうえさらに一本の弦をもち、ヴィオラよりやや大きい。そして一本の帯でしっかり固定されているため、胸元と腕で支えもつことができるのである。」
写すのが大変なので省略してしまいましたが、フォルケルの記述にはそもそもなぜこの楽器が考案されたのかという事情が前略の部分に書かれています。今回は割愛しますが、合わせて読むとわかりやすいです。
ここにあげたヴァルター、ヒラー、フォルケルはバッハにまつわる楽器としての記述ですが、これらとは別にもいくつか同様の記述(過去のブログでも紹介済み)がドイツの文献などを中心に残されています。
いずれにせよ、おそらくここまでお読みいただいただけでも、ヴァイオリンのように弾ける小型の5弦チェロがあった可能性を感じとっていただけるのではないかと思います。
楽譜に関すること
大槻先生のレクチャーをそのままここに載せることはできませんが、1つだけ興味深いことを紹介しておきたいと思います。
(写真・上、アンナ・マグダレーナ・バッハの筆写譜の表紙カバー)
J.S.Bach のチェロ無伴奏組曲の楽譜は何人かの人によって直接的、間接的に写譜されているわけですが、その中でももっともバッハに近いところにいた夫人のアンナ・マグダレーナ・バッハによる写譜は依頼者の手によって表紙がつけられており、一部がヴァイオリンの無伴奏組曲、二部がチェロの無伴奏組曲という形でセットになっているということです。
これもいろいろな想像ができますが、ヴァイオリン(横持ち)と現代のチェロ(縦持ち)であれば、まったく別の楽器として、奏者も別であるので楽譜も別々でよいと想像できますが、ヴァイオリン(横持ち)と[肩掛け]チェロ(横持ち)であったとすれば、この2つがセットの曲集としてまとめられていても何ら不自然はありません。実際、昔はいくつもの楽器を掛け持ちすることは当たり前のことであったことは広く知られていることです。
もちろん当時は横持ちと縦持ちの楽器の両方を弾く人もいたでしょうし、楽譜の依頼者がどのような人であったかということをもう少し調べる必要がありますが、いずれにせよ興味深いことだと思います。
もう一つ、楽譜に関することで私が考えたことに、なぜ浄譜(清書された譜面)が残されていないのかということがあります。
大槻先生はこの点を取り上げ、そもそも浄譜は最初からなかったのではないかという仮説を立てておられました。この点は本当に先生のレクチャーがおもしろかったので、ぜひ皆さんにも受講をお勧めしたいのですが、先生の観点とは別に、私が考えたのは、なぜバッハはこれほどの名曲を清書して世に出そうとしなかったのかということです。
私はその理由も実は小型5弦肩掛けチェロの存在によって説明できるのではないかと考えています。またこれほどの名曲がバッハ亡きあとに見失われ、ふたたびカザルスによって見いだされるまでに忘れ去られていたこともやはりこの楽器の存在で説明できるのではないかと考えています。
バッハにとっての夢の楽器~ソリスティックに奏でられる低音弦楽器
結論から言えば、私は小型5弦肩掛けチェロ(あえて日本語の呼称を使います)は明らかに存在したものの、バッハしか持っておらず、まったく普及はしていなかったのではないかと考えています。
楽器の存在を否定するにはあまりにも、存在を肯定する資料が多すぎ、また先に述べた二重巻弦の問題も大した問題ではないと思われるからです。
一方で、普及がしていなかった最大の要因はやはり弦であったのであろうと考えています。銀線を二重に巻くという高価な弦は、楽長であったバッハこそ持ちえたものの一般に普及するには当時の技術では安く大量に作るには及ばず、したがって普及してもいない楽器のための楽譜を清書する必要に迫られなかったのではないかと想像しているのです。
もっと言えば、ほとんど1台か、あるいはあってもおそらく数台しかなかったと思われる小型5弦肩掛けチェロのために、その楽器を何台も使った音楽を書くこと自体もナンセンスであったと思われます。したがって、チェロの無伴奏組曲はそもそも楽器自体が一般になかった希少な楽器のために書かれたため、ソロの楽曲であらざるをえないかったと考えることさえできるように思われます。
これに対し、カンタータなど、他のチェロ(ピッコロ・チェロなど)を使った曲では楽曲の構成が異なることを大槻先生のレクチャーを通じて学ばせていただきましたので、ぜひその点が気になるという方も先生のレクチャーをご受講ください。
私は小型5弦肩掛けチェロ、ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ、ヴィオラ・ポンポーザと今日呼ばれている楽器は、バッハにとっての夢の低音楽器であったのではないかと思っています。当時のチェロはまだ現代のほどの演奏技術が発達していなかたので、ソリスティックに演奏が可能な小型5弦肩掛けチェロにバッハが胸を躍らせたことは想像に難くありません。現代のように様々な弦が自由に作れ、ガットの巻弦も不自由なく手に入る状況を目にしたら、バッハはどう思ったでしょうか。きっと身近な弦楽器製作者に、もっとスパッラを作るようにと催促したに違いないと思うのです。
チェロの無伴奏組曲が小型5弦肩掛けチェロによって作成されたかどうかという点では、大槻先生は現時点では懐疑的で、やや大きめのチェロを横持ちで使っていたのではないかというお話をされていました。ただこの点だけについては、私はむしろ小さい5弦肩掛けチェロのために、チェロ組曲が書かれたと考えています。それはやはり何よりも重音の弾きやすさという点で、Waltherの口絵に描かれているサイズ、あるいはライプツィヒに残されているバッハに親しかった製作家Hoffmannの楽器サイズのようなまさに小型の5弦肩掛けチェロが最適と考えているからです。
大槻先生が小型の楽器に懐疑的だったのは、十何年も前に試されたときの二重巻き線の質がよくなかったことが原因にあったようです。私の楽器も試奏いただき、改めて自分でも二重巻弦を試してみたいとお話されておられましたので、それをもってどのような見解を先生がこの先持たれるのか楽しみにしています。
バッハにとっての夢の楽器、スパッラをどのように用いていけるか、どのように捉えていけるか
実は製作家として、小型5弦肩掛けチェロを製作するにあたり、次のようなことを考えてきました。
すでに小型5弦肩掛けチェロに対して、懐疑的な意見が多くあることも知ってはいましたので、この小型のチェロが歴史的に存在したとしても存在しなったとしても、楽器を購入してくださったお客様に最終的にまったく損がないものでなければいけないと思い、またそのためにどのようにすべきかと考えてきました。
まず歴史的な裏付けがとれて、この不思議な小型5弦肩掛けチェロが存在していたとしたら、特に問題はないかと思います。ヒストリカルに(時代考証に基づいて)弾きたい人はバッハの無伴奏組曲だけに用いてくださってもよいかと思いますし、ヒストリカルであることの中にも自由を認めるのであれば、より広いレパートリーの曲に(バッハがこの楽器をたくさんもつことができたらどう使っただろうと想像したりして…)使っていただくこともよいと思いました。
一方で、まったく歴史的な裏付けがとれず、昨日生まれた楽器であったとしたらどうでしょうか。これでもまったく問題なく、皆さんに楽しんでいただけるようにするためには、ストラディヴァリやグァルネリの師匠でもあったアマティAmati一族の昔にさかのぼる楽器製作方法が必要だと考えました。それはどういうことかと言えば、あまり一般には知られていませんが、アマティ一族などかかは、今日知られているヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスという楽器以外にもありとあらゆる弦楽器を作り出す技法をもっていたということに関係します。
それは既存の楽器をコピーしたり、模倣して作るという今日の楽器製作の大勢を占める手法ではなく、楽器をハーモニカル・プロポーションに基づいて一から設計して作るという方法です。これを用い、復活させることで、たとえ小型5弦肩掛けチェロが歴史的にはかつてなかった想像上の産物だと結論付けられたとしても、様々な種類の弦楽器を音楽に応じて、ある意味際限なく生み出していた昔の製作者のように、歴史と伝統的なプロポーションがありながら、まったく新しい楽器を提供でき、それを楽しんでいただけると考えたのです。
いずれにせよ、ここまでお読みくださった方には、小型5弦肩掛けチェロがバッハの周辺にまったく存在しなかったということはもはや想像しにくくなっていると思いますが、楽器の活用法という面においてはこれからが課題だと思っています。
仮にバッハでさえも限られた数しかもつことができなかった楽器を現代のわれわれが自由にもつことができるとして、その上でバッハの気持ちになったら、どれだけ沢山ことができるでしょうか。これを考えるとわくわくしてしまいます。
先日の大槻先生のレクチャーでは、クープランの曲を2台のチェロ(スパッラと現代の大型チェロによる合奏)で演奏してくださいましたが、とてもすてきでした。
バロック曲にかぎらず、今日、バロック楽器として生まれたヴァイオリンなどがあらゆる分野で使われていることを考えれば、スパッラ(小型5弦肩掛けチェロの愛称)がどこまで広がっていくかを見極めることは今はまだまったくできないほどです。
小型5弦肩掛けチェロをめぐる歴史のピースは、まだまだ欠けている点もたくさんありますが、願わくばこのバッハの夢の弦楽器をより多くの方が用いて演奏を楽しんでいただきたいと願っています。
まとめ
自分にとってはいつになく長い文章を書いたので、頭がいっぱいですが、それでも文章力がないためにまだ書いていないこともたくさんあります。ただ、要点だけは書けたような気がします。賛成の方、賛成でない方、問題点を他に見つけた方などがおられましたら、ぜひ直接意見を伺えれば大変うれしいです。
小型5弦肩掛けチェロは、バッハのあの小さなチェロのための楽曲だという認識がおそらく当時の人々の間にあったがために、バッハが亡くなり、高価な二重巻線を張った楽器が使えなくなるのと同時に楽曲も見失われ、その後カザルスによってふたたび見いだされるまでに長い年月を要することになったのではないかと私は想像しています。
その夢の楽器が自由に作れる時代になったからこそ、これからさらに小型5弦肩掛けチェロをたくさん作り、バッハの自由な夢を一緒に楽しみたいと思います。その中で、いつも工房に通ってくださり小型チェロの再現に力を貸してくださる天野寿彦先生、すばらしいレクチャーを聞かせてくださった大槻晃士先生、日本におけるスパッラ演奏とともに歩んでこられた赤津眞言先生など多くの演奏家の方に支えられていることを感謝します。お名前は全員あげられませんが、この他にも多くの方に資料提供などの面でサポートをしていただいています。
また弦の分野ではDaniela GaidonoさんやEliakimu Boussoirさんなどから貴重なアドバイスをいただいていることを本当に感謝しています。ガット弦のみならず、シルク弦の開発も実は非常に楽しみにしている分野の1つです。
また製作家としては、これまで学んできた多くの先生に加え、特に小型5弦肩掛けチェロの今後の調査結果がどっちに転んでも演奏家や愛好家の方に損にならないように、見失われた伝統であったハーモニカル・プロポーションの技法を教えてくれたディミトリー・バディアロフさんに心から感謝しています。実際、小型5弦肩掛けチェロの普及ということ以上に、すべての弦楽器に関係するハーモニカル・プロポーションによる製作という文化は演奏家の方々を通して後世に伝えていきたいものであり、これなしには楽器製作は創造性に乏しい仕事になってしまうと感じています。
今後はピリオド楽器としての枠を超えた用い方も提案していきたいと思いますし、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスがそうであるように、スパッラの用いられ方も無限の可能性があると考えています。
演奏家の方々とのコラボレーションを楽しみに今日も製作に励みたいと思います。
最後になってしまいましたが、ご注文いただき、お待ちいただいている皆様には、本当にお待たせしてしまい申し訳なく思っております。専心し、よいものをお届けできるよう頑張ります。