オリジナルを作れるか

現代の弦楽器製作は、自分で楽器を設計して作るのではなく、昔の楽器の写真やポスターを写しとって、場合によってはポスターを貼り付けて作ることが普通になっているとお話しすると、製作者ではない方は驚きます。

実際に私が見てきたメッカと言われるクレモナ でさえ、コピーしたポスターを木材に貼り付けて製作をする人も珍しくなく、昔の楽器のポスターなどの印刷物から型をおこすことは当たり前に行われていました。

イタリアに行って残念に思ったことの一つですが、その後に見た他国でも事情は変わりませんでした。

今の製作者に、ストラディヴァリでもグァルネリでもないオリジナルのモデルの楽器を作って下さいと注文すれば、多くの製作者は根拠を見失い、途方に暮れてしまいます。

コピーだけが根拠になっているからです。

それが大方の現在の楽器製作の姿です。

ストラディヴァリやグァルネリや、グァダニーニや、なんでもいいのですが、昔の楽器をコピーした楽器があふれているのはそういう理由です。

素晴らしい楽器だからコピーしてみたというのは一つの理由としてあげられますが、それをし続ける必要はないと思います。

しかしコピーが一般化されたことで、製作技術を競うコンクールの前提は逆に整ったかもしれません。

すべての製作家が昔の製作者のようにオリジナルばかりを作っていたら、優劣を語ることは困難になるでしょう。

なぜならどれもが、それぞれに素晴らしく、優劣で語ることはあまりに短絡的だからです。

演奏の世界における古楽の復興も残念ながら楽器製作の現場においてはコピー製作を助長しただけでした。

昔の演奏家はそこまでコピー品ばかりで演奏していなかったので、コピーばかり続けていたらヒストリカルな演奏を目指すという本質から遠ざかるはずなのですが、残されたわずかな資料を元に、ひたすらそれを模倣して作り、その背後にどのような設計の文化があったかは長らく問われませんでした。

しかしそうした中でも少数ながら、文化の本質に光を当て始めた人たちがいました。

その一人は、私の先生であったレナート・スクローラヴェッツァでした。

レナートは現代の弦楽器製作の中にあっても執拗までに、コピーをすることを拒み続け、私を含む弟子たちに昔の楽器を手本にはしても、模倣やコピーをするなと言い続けました。

もう一人はディミトリー・バディアロフさんです。

ディマ(バディアロフさんの愛称)は、古文献を頼りに、実践的な手法としての設計技法を掘り起こし、ふたたび使い始めました。

他にもこの試みを促した人たちがいますが、いずれにせよ少数派でした。

しかし、コピーというものは精緻に作られれば作られるほどに個性を失っていくので、遅かれ早かれ行き詰まり、オリジナルの製作に楽器製作の業界もシフトしていくと思います。

今は、プライドがあってオリジナル製作について口を閉ざしている人たちも、いずれその方法にたどり着いたら、オリジナルの素晴らしいさを語ることになると思います。

そのような中で、先週、二人の製作者にこの昔の技法の根本を伝えられたのはうれしいことでした。

線を描く上での機械製図の技法はいわば枝葉なので、文化的なプロポーションの性質を理解してさえいれば、それに機械製図を組み合わせることはわるいことではないと思います。

プロポーションの理解に機械製図を組み合わせることは次の課題の一つですが、おそらくこれは比較的簡単にできるものと思っています。時間を見つけなければいけませんが。