コピーではない楽器を持ちませんか?

かつて日本に山本鼎(やまもと かなえ)という画家がいて、当時の児童美術教育のあり方を変えたことは今日ではもうあまり覚えられていないかもしれません。

当時は教科書のお手本を生徒たちが模写するということが美術教育であったの対し、山本は本物からの写生を教育に取り入れました。

今日ではあたりまえのことかもしれませんが、それは非常に大きな変化であったはずです。

今日の楽器製作も、ストラディヴァリやグァルネリ、グァダニーニ(その他にも沢山います)などの昔の製作家の楽器を写真やポスターなどから模倣することに終始していますが、その昔、ストラディヴァリやグァルネリなどがコピーをしていたかというと彼はしていなかったのです。

していなかったからこそ価値を持ちえたのにもかからず、なぜ現代ではコピーをし続けるのでしょうか。

もちろんコピーをすることで学ぶことも多くありますが、しかしそのコピーも大半は写真やポスターなどのカメラ・レンズの歪みを通して写され、かつ印刷された紙からとられていることがほとんどなので、正確性さえないものなのです。

なぜそうなってしまったかと言えば、製図技法が失われたからですが、問題はその技法を探す努力も怠った結果、同じような楽器が市場にあふれてしまったということです。

皆さんの周りにもストラディヴァリの〇〇をモデルにしました、グァルネリの〇〇年の楽器をモデルにしましたという楽器は無数にあるに違いありません。事実、おそらく世界でもっとも多くコピーされているのは現在、イタリアのクレモナに所蔵されている1715年のIl Cremonese(イル・クレモネーゼ)と呼ばれる昔ヨアヒムが使っていた楽器に違いありません。

しかし、コピーはどれだけ上手に作ってもオリジナルには決してなれません。

それどころか、精巧なコピーを作れば作るほど、皆が上手になればなるほど本物に肉迫し、結果的に大量の本物に似た模造品が生まれ、結果没個性的になってしまうという構造をはらんでいるのです。

演奏家の方は、はたして没個性的な楽器がほしいのでしょうか??

没個性的な楽器は演奏家の仕事に貢献できるのでしょうか?

率直に言って、それで成果を上げられる演奏家が多いとは思えません。それよりも一人一人の演奏家が唯一無二の、その人に仕方ない楽器をもつことで、その人にしかない表現につながる可能性をサポートできると思うのです。

演奏によって奏でられる楽器の音の99%は演奏家が創り出すもので、楽器のもつ力は1%に過ぎないと私は思っています。しかし、だからこそ、その1%はオリジナルであることで、残りの99%の魅力とあいまった奇跡を生み出せるのではないかと思います。