パラダイムの変換点~不測の時代の仕事〜運が良くなる働き方とは

新型コロナウイルスの影響で世界中の先進国と呼ばれた都市が瞬く間に機能不全に陥りました。

当工房がある埼玉県飯能市でも、感染者が出たという報告が出ました。とは言っても当工房は市街からは離れた川沿いにあり、ふだんんでもほとんど人の入らない場所にあるので、たまの来客を受け付けるのをやめた以外はほとんど仕事に支障は出ていません。仕事も人に会わずに家と工房を行き来するだけなので、ソーシャルディスタンスを気にする必要もありません。

また、住まいのある隣町はまだ感染者の報告がなく、子どもたちも外を駆け回って遊んでいます。この状況で外に出て遊ぶことは、身勝手だ、ソーシャルディスタンスをとらないとと思われるかもしれませんが、実は自宅のある地域はとうの昔にソーシャルディスタンスを確立していたのです。凋落した郊外型都市住宅地域の空き家問題によってです。

一昨年まで私はこの空き家問題の顕著な過疎地域から2時間以上をかけて渋谷の職場に通っていました。

職場の同僚や友人の多くは、2時間以上、往復で5時間近く毎日大変だねと言ってくれていたものですが、朝窓を開けると緑が見える環境でなければ生きていけないと自認しているため都心に住む方が私にとって大変でしたし、何より緑の多い環境の中で子どもたちに遊んでもらいたいと思っていたため、これは仕方ないと思っていました。

その上、3.11を経験した後も行政が都市の形態をまったく変えようとしないことがまったく私には理解できませんでした。

東日本大震災の規模は確かに想定外の規模だったかもしれませんが、少なくとも想定外のことが起きうるということを私たちはそこから学べたはずです。しかし、現実には何もかもが、少なくとも東京では以前と変わりませんでした。

今回の新型コロナウイルスの蔓延するような状況になって立場が逆転し、運がいいと言われたりもします。ある意味、パラダイムが転換してしまったのです。

仕事も同じで、弦楽器技術者というと、弦楽器の修理が主な仕事というケースがほとんどなのですが、修理を主とすると人口の多い都会に住まないと不便なため、あえて修理という需要が多い仕事に背を向けて一人都心から離れたところで楽器製作を仕事の主軸におきました。

多くの同僚や友人からは、当初はそれでやっていけるのか、大変だねと言ってくれていましたが、現在都心で修理を主にやっている人たちは収入の激減に直面し、最近はおまえは運がいいと言われます。

実際に私はとても多くの方々に支えられ、本当に運がいいのですが、その一方で運がよくなるように動いている面もあるのです。

これは私が優秀だということではまったくなく、平凡な私でもそのように動くことができるということです。新型コロナウイルスの問題に直面し、多くの友人や同僚、演奏家の方々が困難に直面していることを見て、何もできず歯がゆい思いですが、今後のことを考えている方々のために私が多くの先輩方から教わった「運がよくなるように動く」とはどういうことかということを少し書いておきたいと思います。

運がよくなるためのキーワードの一つは私は「多様性を選ぶ」こと、別の言い方をすると「人と同じことをしない」ことだと思っています。

少し話がそれるようですが、2年ほど前まで私の週末の楽しみは畑仕事でした。畑仕事を通して、例えば大根1つをとってもかつては何十という種類がその土地土地であったことを知りました。驚くほどの多様性です。それは人々と野菜がその土地土地で生き抜くための変化(多様性)であり、変化の賜物でした。

今、私たちがスーパーに行くとせいぜい2種類ぐらいの大根しか売っていなかったりします。当然そこには多様性はありません。

なぜそのようなことになっているかというと、スーパーを運営していく上での経済的な効率のためです。

しかし経済的な効率は、その土地土地で生き抜いてきた昔からの知恵を放棄してしまうため、私たちは今グローバル化と言われる社会、あるいは効率化のために都市に機能を集約させた社会の中で、今回のようなその機能の根幹に干渉する事象に出会うと社会が停止してしまうという問題に陥っています。

昔は当たりまえですが、生活圏がもっと小さかったのでこのような問題は起きなかったのです。

この問題の本質はこうした都市機能あり方や都市機能の停止が起きてしまっていると言うよりも、どちからというとこうした現象が難しいことではなく小学生でも理解できることであるにもかかわらず、誰も真剣に考えようとしないということではないかと思います。なぜなら、そのことを考えることができないと、今回を乗り越えてもまた同じようなことが繰り返し起きると思われるからです。

誰も真剣に考えようとしないというのは、今の都市の在り方、私たちの生き方では何かが起きたときにこのような問題に必ず直面すると分かっているにも関わらず、それを回避しようという行動を起こす人があまりに少ないということです。

このように言うと政府のせいにする人が必ずいますが、政府の問題ではないと私は思います。なぜなら政府は結局世論で動いているので、問題は十分に多様性ある行動をとれない私たち国民1人1人にあると思うのです。

人間は馬鹿なので、経済的に破綻するか、健康を害して破綻するか、人間関係が破綻するまで自分自身を変えることができないと言われたりしますが、まさにそうした人間の性質を拡大したものが社会であるのならば、行きつくところまで行きつかないと気付かないのかもしれません。かく言う私も十分に多様性ある行動をとれているかというとそんなことはありません。多様性とは動的平衡でもあるので、固まってしまっては得られないという側面もまたあると思います。

多様性の別の言い方として、「人と同じことをしない」ということは、実は父の教えでした。もう20年も前から、これからは希少性の時代になる、人と同じことをしない方がいいということを言われてきたように思います。父は純粋にビジネスマンとして、風変わりな志向の息子に何か教えようとして言ってくれていたのだと思いますが、時代は変わっても本質的なことだと感じます。

さて、運が良くなるために必要な選択として多様性を意識して、人と同じことはしないということの他に何があるかと言えば、それは「本質を考える」ということだと思います。

「本質を考える」ことは、実はけっこう難しくほとんど誰もできていないために都市形態が変わらないのは上に書いた通りですが、本質を考える時に大事なのは、一人の時間を持つことと、人の意見を一度すべて忘れることと、小学生のようにごくごく当たり前のロジックだけを組み立てて物事を考えることなどだと思います。

これをやった上で行動すると大抵の場合、変人扱いされたり、大多数から理解されなかったりしますが、それを振り切って考えていかなければならない芯の強さは必要かもしれません。

例えば首都直下型大地震が来たらどうなると問うたとして、皆さんはどのように答えますか?

日本の政府機能が麻痺する可能性は大いにあります。東京が壊滅する恐れがあります。そういう可能性があるならば、それを回避するために都市機能や行政機能を予め分散しようということが考えられるはずです。それによって生じる多少の不便は飲み込もうと考えられるはずです。

また今回のように外出ができない事態が続くと5Gなどの普及が推進されるかもしれませんが、もし電波障害などにより回線や電気が使えなくなったらどうなるかと考えると、全てをデジタル化に集約し、通信手段や生活様式の多様性をなくすのも危険な可能性があると言えます。

 これらは一つの考え方に過ぎませんが、少なくとも気候変動などによりますます不確実性の増えている時代の中では、不測の事態が起きた時に物事が集約され過ぎていたり、多様性が失われていると問題が起きやすいということは誰でも考えられると思います。

これらを回避するには、経済の成長速度を落としてでも、集約的な効率を犠牲にしてでも、多様性こそが安全性を担保した新しい効率のあり方なのだということに気づいて、より多くの国民が少しずつの多様性と少しずつのこれまでとは違った効率の捉え方を生活の中にとり込んでいくことではないかと思います。

そうしておくと、結果的に誰もが運は良くなると思うのです。また仮に運が悪い人が出たとしても、他のみんなで助け合えると思うのです。

私は今のような状況下でも毎日朝から晩まで仕事の忙しさも楽しさも変わりません。実は海外で同じような選択をした友人たちともつながっているので、毎日Whatapp(LINEのようなアプリ)でおしゃべりや情報交換もしています。

私の生活は都心生活者からすると不便かもしれませんが、世界の多くの国々から比べれば、まだ王族のように豊かな暮らしなのです。それはこれまでに多くの国を旅してきたので分かります。

皆が少しずつ力を出せば、社会は変わると思いますし、日本は基本的にとても豊かな社会なので、世界から見ることができる視点があれば、ちょっとの非効率も、別の視点からは新しい効率だと捉えて、十分楽しく暮らしていけるのではないかと思います。

 (写真は工房の庭)