楽器が生まれる瞬間

量産楽器でない限り、個人の製作家が、写真やポスターからのコピーではなく設計図を持った楽器を作るときには、中心線を基準とし、プロポーションを取ることから始まります。

より正確には、古文書によれば、聖なる十字…二本の線のクロスしたものを描くことから設計を始め、徐々にプロポーションをとって形になっていきます。

しかし、それだけではDNAを持ったというだけに過ぎません。中心線というある意味楽器の内側にあるところから出発しつつ、写真のように横板を表板と裏板に写し取る段階になると、製作家の意識は徐々に外(アウトライン)から中心へと、それまでとまったく逆の意識に製作の支点を変えていきます。

その境目は明瞭ではなく、徐々にとしか言いようがないのですが、ストラディヴァリの遺された製図などにも見られるように、表板が切り出され、f孔が切り出されるときには、ほぼ完全に外側(アウトライン)から全体のバランスを探すようになっています。(中には中心から外へという意識を持ったまま作った製作家もいましたが)

設計図または型枠というイデアと、実際の個々の木材の表情と製作家の手が作る楽器の外郭という現実が互いに干渉しあい、その境界が黄昏(誰そ彼)時のように一度曖昧になり、再び姿を見せるのが、まさに横板を表板と裏板に写し取る時から始まるように感じます。

したがってこうした工程の重要さは、製作家にしか知られるものではありませんが、この工程をなくしてはまた外郭だけを模した量産品との違いも生まれないと感じます。

すなわち量産とは単に定量化された機械的な工程のことを意味するのではなく、設計図たるイデアを持たず、イデアと現世の木材がせめぎ合ってその境界を決する時間を十分に持たない物作りのことを言うのではないかと思うのです。

逆を言えば、我々個人製作家もイデアを求めることを忘れてしまえばいつでも単なる量産作業に陥ってしまうように思います。

イデアを持たない現象だけの製作は、例えるならば感動を届けることを忘れ、インスピレーションの降臨を迎え入れることを忘れた演奏にも似て、愛されるべき余韻を見失ったものとなってしまうのではないかと思います。