専門の危険性、勤勉の仇(あだ

最近、仕事をする中で、おもしろい話を聞きました。

それは人は動きがあるところ、ムーヴメントがあるところに引き寄せられるということです。これは当たり前のことだと誰でも思うと思うのですが、実際にそれでは何が人々にとって、「動き」と感じられるか「ムーヴメント」と感じられるかという話になると勘違いされていることが非常に多いということです。

これはどういうことかというと、多くの真面目な人は積極的に動いているのですが、「積極的に専門性を高めてより質の良いものを提供しようと奮闘する」傾向があり、それが問題を引き起こすというのです。

別の言い方をすると、演奏家であれ、製作家であれ、そのほかのどのような職業人でも、自らの演奏や楽器製作やそのほかの知識・スキルを磨いていくことは必要不可欠ですが、それは必ずしも聴衆やお客様からしてみると動いている、ムーヴメントを起こしているとは見られないということです。

むしろ、専門的なことを熱心に追及しようとすればするほど、そのことに時間をかければかけるほどに、周りのほとんどの大多数の人からは何をやっているのか理解されず、結果、動きがなくムーヴメントがなく、止まっているように見え、魅力を感じてもられないのです。

飛んで火にいる夏の虫という言い方がありますが、実は光のある方向に向かうのは虫だけではありません。人間は電灯の周りをぐるぐる飛びこそしませんが、明るいところに吸い寄せられる性質は実はかわりません。

専門性はムーヴメントがないばかりか、動きが見えづらいことから、結果的には暗くさえ見えてしまうこともあるということです。

暗いところ、動きがない停滞しているところに皆さんは惹かれますか?

おそらく惹かれないと思うのですが、でははたして自分が動けているかということを振り返ってみると、まったく不十分であったり、特定の小さなコミュニティーの中でだけ理解してもらえる広がりの乏しい動きであることが多いことに気づかされます。

だからと言って、専門性を追求しようとせず、口八丁だけで仕事をこなそうとしている人を見ると、あまりいい気はしないのも確かなので、専門家として追及すべきことをすること、感性とそれを表現できる技術に磨きをかけることと、動き・ムーヴメントが見える活動をしていくことはその両方が大事なのだろうと考えさせられました。

分かってくれる人だけが分かればいいという態度は、僕個人は傲慢なようで好きではありません。本当にいいものなら、沢山の人と共有できたらもっと喜びが広がると思いますし、自分を助けられれば、また他の誰かに手を貸すこともできたりするものです。

肩掛けチェロが個人的に好きなのは、この楽器の史的正当性以上に、型にとらわれない動きを演出し、これまでの既存のものさえも一緒に輝かせてくれる可能性を感じるからです。

想像力ある人だけが仕事をしていける時代になってきました。想像は創造の源であることが、痛いほどに見えてくる時代だと感じます。想像力を働かせることを怠り、既成の概念だけで、人を評価し、仕事を進めていく人は大きな代償を支払うことになるのではないかと思います。

機械が再生できること、再現できることをやってもそれは機械の仕事にしかならず、またその人の動き、ムーヴメントとしてはなかなか見えてこないからです。

ということを自分に言い聞かせつつ、想像力を働かせられる、日々の生活の中での空間・余裕・フリータイムをしっかりとっていきたいなと改めて思いました。