(やや辛口な記事です。)
ある時、同業の後輩が工房に立ち寄って、肩掛けチェロを試奏してくれました。
その時に、試奏が終わってからその後輩に「本物はどこにあるのですか?」と尋ねられ、ショックを受けるのと同時に、説明すべきがどうか迷うという出来事がありました。
画家に絵を見せてもらい、「本物はどこにあるのですか?」と尋ねることがあったら、大変失礼な気がしますが、そういうことに思い当たらない弦楽器製作家は、楽器というものは「昔の本物」をコピーするものとあまりに強固に思い込んでいると感じます。
実際、「本物はどこにあるのですか?」という問いに限らず、現代の多くの製作者は、楽器を作るときにお手本がなければ楽器が作れなくなっています。それは楽器の外側ばかりが模倣され、コンセプトと設計が失われた結果であると私は思います。一人一人が常に模倣ではない、製作者固有のオリジナルを作っていればそのような質問など思いつくことさえないのではないでしょうか。
製作家ばかりを責めてはいけないかもしれません。演奏家もコピーを求める傾向があります。でたらめに作られたものを求めるよりは安全かもしれませんが、しかしそれは比較的安全だというだけです。
しかし一見安全ではあってもオリジナルの新作楽器が圧倒的多数だった時代の再現としてのヒストリカルな演奏を試みようとするのであれば、むしろコピーされた楽器を使うことは本道ではなくなってしまうかもしれません。
そもそも、ヒストリカルな演奏家かどうかを問わず、本当にポスターなどを写し取って作った商品で演奏家は満足できるのかなと思います。コピーである限り、より良いコピーを求めはしないでしょうか?もちろん、本物よりもコピーされたものの方がいいということはありますので、一概にコピーを否定はできませんが、それならば少なくとも現代の製作家なら、いっそオリジナルを名乗ってしまった方がよいのではと思います。
また、我々製作家も昔の楽器のコピー商品を作ることで本当に演奏家を助けることができているのでしょうか?
廉価品としてのコピー商品を生産し、愛好家の裾野を広げるということは昔から行われてきたことではありますが、独立した製作家は、勉強を目的とするのでない限りは、わざわざコピーを作らなくてもいいのではないかと思うのです。
もちろん昔の素晴らしい製作家にインスパイアされることは、何年やっていても尽きませんし、私自身アマティやストラディヴァリなどの影響を避けることはできません。それでもなぜ製作家をやっているのかというと、オリジナルの商品でしか演奏家をサポートできない面があるからだと思います。
一人一人の演奏家の方に、その製作家にしかできないプロポーションで設計し、その木でしかできない楽器を作って(時に木の癖や節などがあったとしても)、それを演奏家の方が手にされた時に「あの人が持っているあの楽器」と言われるような、他にはない抜きん出た活躍の提供を考え、唯一無二のチャンスを提供することが製作家の役目ではないかと思います。そしてそれは「どこかに(別の)本物がある楽器」ではできないことではないかと思うのです。