弦楽器は正しくなければならないのか???

製作者として、アマティ一族、グァルネリ一族、そしてストラディヴァリなどの名工に憧れ、多くの名もなき昔の職人たちの知恵を掘り起こし、再現したいという思いで製作をしてきましたが、同時にそれらが程度の差はあれ、部分的には不可能であったり、また意味のないことであることも感じてきました。

また一方で、そうしたこととはまったく別の次元で、ストラディヴァリなどに代表される昔の製作者を礼賛し過ぎることについても違和感を覚える中で、徐々に弦楽器はある方向性において正しくなければならないのか?正しくあることができるのか?ということを考えるようになりました。

特にヒストリカルと言われる、歴史的な検証を重ねてかつてのあり方を追求する演奏や楽器製作を求めていくと、常にそうした問いにさらされます。

結論としては、追求し続けるということだけがある意味正しいことと言えば正しいことであり、現時点である答えや推測は完全に正しくなることはありません。逆に言えば、極論ですが、常に我々は間違っているとも言えます。

そうなった時に、正しくなければ音楽を楽しめないのか?人生を最高に楽しめないのか?というと、全くそうではないことにも気づかされます。

そのため、学究も、その時々の結果(正しいか正しくないかという観点からは、ある意味、すべて間違っている結果です・笑)を皆で楽しんでいき、その過程で正しくなかったものも楽しみ続けるということ、もっとシンプルに言えば、調査も演奏もそれぞれに単に楽しむということが、好感の持てる姿勢なのではないかという気がしてきました。

元を正せば音楽は娯楽であり、調和であり、癒しです。それらを見失った追求の姿勢はどこか本質から離れていくように思います。

また、そうしたことは別に現代の我々だけに常に問われていることがあると思います。それは持続可能性があるか、サスティナブルであるか、どうかということです。持続可能性のない活動はもはや現代においてはすべてアウトだと思っています。

またヴァイオリン属の弦楽器をほかの楽器と比べた時に、完成されていると言われるがゆえに進歩しないという問題もあったり、また完成されているという観念のもとに、スタンダード化され、単純化されてきた歴史もあります。これも裏を返せば、様々な種類の弦楽器が花咲く余地が実は現代にはあるということだと思います。

そして、今の時点でこれを自分なりにまとめてみると、一言で言えば弦楽器をヴァイオリンではなく、ヴィオラを中心に再編成することで幅を増やすことが楽しそうな気がしてきました。

弦楽器か正しくなければならないのかというのは、考えてみるとおかしな問いです。芸術はすべて自然の現し身であったことを思えば、変化だけが残り続けるものであることは明らかではないでしょうか。

今日は大槻先生の講義と、楽器や音楽に臨む先生の姿勢を見て、そんなこと考えさせられました。