考え事 〜楽器を知りたい人は本当に知りたいのか〜

「知る」というのは純粋に知的な作業の結果であるだけでなく、足を運んで調べたり、手を動かしてみたり、作って失敗してみたり、集めてみたり、比べてみたり、使ってみたりという地道な活動の結果であると思います。

しかし、よほど興味のあることでなければ、実際には私たちは知りたいと言いつつも、自分では調べずに人に聞くだけだったり、信頼できる人に聞くのならまだしも、ほとんどの場合は、知りたいと言いつつもなぜか身近な人の噂に耳を傾けてそれを信じ込むことに終始し、ほとんどの時間を噂話だけで過ごしているようにも見えます。

別の言い方をすると、知るということは、一部の学問以外、ほとんどの分野では身体的な活動であり、それもなしに何かを語るのは難しいと思うのですが、楽器もその例外ではない以上、聞きかじったぐらいのことにほとんど意味はないと思うのです。

今の世の中の情報は基本的には経済活動のために提供されている情報なので、それが間違っているわけではありませんが、それを鵜呑みにせず、なぜそういう情報が流れているのか(いかに売らんとしているのか)を考え、文化や価値観をまたぎながら、考えて、感じて、見ていかないと、痛い目を見るように思います。

よいものを見極めていく目、良い買い物をする目は、人から言葉を借りて作るのではなく、地道な活動の中で養っていくしかないとも思います。

それには、どのような偉い人が何と言っていようとも、いいか悪いか、好きか嫌いかは、自分の問題なのであることを自覚することかなと思いました。

声の大きな人や年上の人が年下や声が小さい人に考えを押し付けるのを見るのは誰しも好ましいことではないと思いますが、年齢に関わらず自分の判断を持たず、勉強もせずに人に判断を任せているのを見るのも心配になります。

判断すること、知ることへの道には失敗はつきもので、私も日々凹むことばかりですが、それでも、意見を構築しつつ、目を養いつつ、地道に調べつつ、直感を養いつつ、ということがどれも必要だなと…最近改めて思いました。