先日、天野寿彦先生のアンサンブル・レッスンにお邪魔した際に、天野先生の生徒さんである小学生の男の子がスパッラを以前から弾きたいと言っているということで、それならばということで試奏していただきました。
当然大きな楽器の躯体に阻まれて音を出すことさえ困難と思っていましたが…なんと小さな体でバッハの無伴奏チェロ組曲を弾こうとしているではないですか!5分にも満たない試行錯誤の末に、最後はきれいな曲の一節が姿を現し、周りの大人たちが呆気にとられている中で、本人は「やっぱりこの楽器欲しい!」と快活に声をあげていました。
このできごとなどに遭遇したおかげで、どれほどわれわれ大人の頭が固いのかということを改めて感じずにはいられませんでした(もちろん、柔らかい方も多くいますが!)。
大人は、たいてい一言目から感動ではなく、理屈を述べることを習慣としています。自分が冷静な判断ができる立派な大人であること示すために、なんであれ説明してみせます。特に対象が見も知らないものだとなおのことです。理屈が口にしにくい時でさえ「なるほど」などと言って見せたりするので、もうその時点で、子どもと比べると、芸術家としての力は半減してしまう気がします。
4弦と違う5弦楽器の響き、ヒストリカル・ガット弦のモダン弦とは違う根本的に違う設計・製造法から生まれる響き、バランス重視よりも個々の弦があたかも個性ある1人1人であるようになっていることから生まれる基音と倍音、楽器の構え方、オリジナル楽器の喪失、すべてに戸惑い、美しい音を出してみようという小学生の一心に届く間もなく、たとえ感動していたとしても、理屈を並べる大人とはなんと不安を抱えた生き物なのだろうと思わずにはいられません。
先日のレッスンの光景以来、ついつい小学生のまっすぐなセンスと、柔らかい頭と、音楽と表現をことなげもなく追求する心を大人のそれとついつい比べてしまい、理屈を並べている姿を見ると痛々しくさえ思えしまいます。かく言う自分も大いに省察させられ続けているということです。
とにかく子どもたちは大人の固まってしなびた頭を軽々と越えていくでしょう。そして、子どもと大人、どちらがあらゆる道具を手玉にとって表現していく芸術家により近いかと言えば、もはやそれは言うまでもないと思います。