ヴィオラ・ポンポーサとの混同〜バッハ叢書を読んでの考えごと

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白水社よりかつて刊行されたバッハ叢書の10巻目にあたる『バッハ資料集』を紐解いてみると、「演奏の名手にして楽器の専門家」と題された11章の中に、「新しい開発への関与、ヴィオラ・ポンポーサ-リュート・チェンバロ-ピアノフォルテ」とあります。

その中で、J.A.ヒラー(Johann Adam Hiller)が、J.S.バッハの没後26年の1766年12月26日にライピツィヒの『週間報知』に書いたものとして、次のような内容が紹介されています。

「この楽器〔ヴィオラ・ポンポーサ〕は、チェロと同じ調弦だが、さらにそのうえにもう一本の弦をもち、ヴィオラよりやや大きい。そして一本の帯でしっかり固定されているため、胸元と腕とで支え持つことができる。この楽器を発明したのは、ライプツィヒのいまは亡き楽長バッハ氏である。」

ということで、まさにヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ、肩掛けチェロのことを指していると思われます。

しかし、こうした形でのヒラー氏などによって行われた紹介が実はポンポーサとスパッラを混同する大きな原因になっていると以前にディミトリー・バディアロフ氏より指摘をもらいました。

ヒラー氏などにより、小型チェロの歴史的根拠のいったんが示されていることはありがたいことですが、しかしその一方で、ポンポーサというヴィオラと同じ音域に調弦された楽器と混同されたり、肩掛けの楽器がバッハの無伴奏チェロ組曲の第6番のためだけのものだと思われたりといったことが生じてしまうということです。

肩に掛けて弾くチェロ(もしくはヴィオラ・ディ・スパッラと呼ばれたチェロ音域に調弦された楽器)については、Jakob Adlungが上のHillarの著述より早く1758年、バッハ没後8年に Anleitung zu der musikalischen Gelahrtheit にて、

「チェロは、ヴィオラ・ディ・スパラとも呼ばれる “Violoncello heiß auch Viola di Spala”」と書いており、私の方で原書は確認できていませんが、ここでも肩にストラップでかけることが指摘されていますので、肩に掛けて弾くチェロ音域の楽器があったことはこうした文献から推察ができます。さらにViola di Spalaという言葉で調べると他にも文献が出てきます。

けっして多くはない日本語資料だけでは誤解が生じるのは仕方がないことですが、そもそもヨーロッパでもなぜこのような名称の混乱が歴史の中で起きたのだろうかということをずっと考えています。

その1つにはもしかすると弦の調達の問題であったのではないかと、最近は考えています。

肩掛けチェロ(ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ、ヴィオラ・ディ・スパッラなど)のサイズでチェロの音域を発現させるためには、短い弦長でそれを実現する弦製造の技術がなければできません。

この技術にかぎらず、弦製造は歴史の中で失われた技術がほかにもいくつもあり、いまだに解明されいないことのあることから、あるいはチェロ調弦ができる弦が手に入らなくなり、裸ガットのみで手ごろのヴィオラ調弦ができる楽器として置き換わっていったのではないか、またその過程で名称の混同が起こったのではないかということです。

いずれにせよ、現在ではヴィオロンチェロ・ダ・スパッラについては多くの方々の努力でふたたびチェロ音域の調弦を可能とするガット弦が見いだされ、またナイロン弦なども開発されて演奏の幅を広げられるようになったことは本当におもしろいことです。

話がとびとびになってしまいましたが、バッハ叢書にも掲載されているバッハの遺品リストには、いくつもの楽器が掲載されていることもよく知られており、バッハ好きでこの道に入った者としては大変興味深いものです。