(先週の畑の様子)
半農半工に憧れる弦楽器製作者の意見と思って聴いていただければと思います。
日本には種子法という法律があるのですが、この法律が今、国会の審議もなく改編されようとしています。と言うよりここ何年かかけて改編されてきました。
私は遠くから見ているような感じではあったのですが、今朝ほど、下にリンクをつけた元農林水産大臣・山田氏のブログを読んで、非常な危惧を抱きました。
仮に、政治家の言葉を引用しなくても、以前に私自身もお世話になっていた農家の方から、「種の話をすることは、身の危険に通じる」ということをお話しいただいたことがあるように、種子メジャーと呼ばれる巨大な種苗会社が、利益を生み出そうと種の利権を争っている中で農家の発言が自由にならないことは、少しでも農に関わる人なら誰もが知ることです。
飯能にある野口種苗という、昔ながらの野菜(固定種や在来種)の種を扱う種屋さんもこうした種の危機に関する発信をしており、その結果としてやはり身の危険を感じることがあるとおっしゃっていると聞きました。このように一部のビジネスが暴力的な様相を見せてしまうのは非常に残念なことだと思います。
お互いを豊かにする競争と成長ならよいのですが、種子メジャーの「自殺する種」の開発や、枯葉剤にさえ耐性をもつ遺伝子操作がされた野菜の開発などには、普通の市民感覚から理解できませんし、種子法が知らず知らずのうちに改編されている背景にどのような政治的・経済的な圧力があるのかということは、考えさせられます。
種や、野菜のことは自分には関係ないと思っている弦楽器製作者や演奏家の方も、種子のもつ多様性が、この世界の多様性、ひいては楽器の多様性や音楽の多様性にも通ずるものがあると考えてみていただければと思います。
みんなが同じものを食べ、同じものを見て、音楽や楽器だけ違うものを作れというのはどだい無理な話です。どこかで感覚が鈍化し、同じようなものしか作れなくなると思います。すでにそうなっていないとも言えないと思いませんか?
今、皆さんの目の前のスーパーやコンビニには効率を考えられてせいぜい1種類、多くて2〜3種類の大根が関東ならどこでも同じように並んでいると思いますが、江戸時代を振り返ると非常に多くの種類の大根なら大根、他の野菜なら野菜が土地土地にあったことが伺えます。
また今は、誰も昔ながらの農家さんが自前で野菜を育てて、種を採ってまた翌年蒔いて育てるという循環は当たり前のこととしてまだ捉えられていますが、徐々に気づかないうちに足枷をはめられるようなことにならないかと危惧します。
種苗会社が、開発したブランド米などを会社の資本として守ることは分かりますが、自由な種蒔きと採取ができなくなるようなことがあってはいけないと思います。
自分で育てた野菜の種の自由な採取が拒まれることがあるとすると、それは自由な心で音楽を生み出すことを制限することと、ほぼ同義だと思えるからです。
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