フィドルとヴァイオリン

フィドルもヴァイオリンもいずれも、同じ楽器を指す言葉で、いずれも英語ですが、ヴァイオリンに比較的繊細で高貴なイメージが与えられているのに対し、フィドルは粗野で庶民的なイメージが与えられてきました。

ヨーロッパのいくつかの言語ではfとvの発音がほぼ同じで(英語ではfはエフ、ドイツ語ではvはファウだったりします。ちなみに後者はwがヴェーですね)、つまりはフィドルという言葉もヴァイオリンも語源的には同じ関係にあると言われます。

英語のfestival、ラテン語のfestusはいずれも祝祭を意味しますが、その言葉との関連から、もともとは民衆の中のお祭りに使われる楽器であったことも指摘されます(※)。いずれにせよ出自がいつまでたってもはっきりしないのは、もともとは庶民の出自であることは間違いないのでしょう。

現代のヴァイオリン製作者の中にはそういう区分を嫌い、洗練されたヴァイオリンを作りながら自らの楽器を意識してフィドルと呼んでみたり、また逆にフィドルと一緒にされたらたまらないという姿勢で一線を画そうとすることもあったり、…演奏家の世界でも事情は似たり寄ったりのようです。

ただ、ヴァイオリンにしても、フィドルにしても、人々の生活の基準が貨幣価値のみになり、土から離れてしまっては同じことかなと思います。どちらかというと現代はその問題の方が大きく、昔ヴァイオリンやらフィドルやらが生まれた時の人々の知恵が経験主義的とされて忘れ去られ、逆に自然科学的な態度が進歩的とされて今日にいたったことの代償と我々は向き合っているように感じます。

話は飛びますが、イタリアに留学していた時のルームメイトから、つい最近まで魔女がいたという話を聞いたことがあります。もちろんこの魔女というのは、昔の生活の知恵を引き継ぎ続けた人ということで、呪文を唱えて箒で空を飛ぶ輩のことではありません。変化のゆっくりなイタリアだからこそのことかもしれませんが、魔女たち(昔の知恵を引き継ぐ人々)の生活は今で言うならば、サスティナブルな、環境持続性のある生活でした。このことは亡き師Lucaもよく話してくれたことです。…もちろんヴァイオリンが生まれた頃にはまだ奴隷制もあり、戦争もあり、沢山の人々を悲しませる残酷なことがあったこともまた歴史の真ではあると思いますが…。

さて、フィドルもヴァイオリンももともとは日本の文化ではありませんでした。

ヨーロッパから遠く離れた日本だからこそ、歴史的に醸成されてきた価値から離れられることもあるのではないかと思います。そして、音楽という括りの中で、様々な演奏をする人それぞれの生き様や、勇敢で優しい心を認め、つまらない境界を笑い飛ばし、新しい価値を生み出すゲームチェンジができればと思います。

※参考文献

『フィドルの本』茂木健 音楽之友社